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2010年07月01日

軽戦闘機 ロア

   序


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Posted by 壇那院 at 00:01Comments(2)軽戦闘機 ロア

2010年08月02日

PHASE 1-1 プロジェクト・オーダー(開発指令)

ロア――正式には、戦術戦闘機F01ロアと、この国の空軍当局に名付けられている航空機について語る前に、私が何者であるか、皆さんに自己紹介しておくべきだと思う。
私はリケル・ナウエ。本名ではないが、この国ではこれで通している。本名の意味をこの国の言葉に意訳したもので、私のこの国での最初の雇い主が、名付け親だ。
当時はロアのメーカーである王立航空技術工房(RATF)の技術者で、ロアの基本設計から携わった開発主務者だった。引退してもこの国に残ってしまった今は、中学校の子供達に基礎的な技術を教える小さな塾を、恩給を受けながら細々とやっている老いぼれエンジニアである。

私がこの国にやって来たのは30年も以前になる。その時もう40才にもなり、技術者としてはすでに、実戦力としておぼつかないとされる年代になっていた私は、故国で会社を辞職する破目に追い込まれ、まだ工業技術的には未熟だったこの国に、ひょんなきっかけから職を求めてやって来た。幸い、設立されたばかりのRATFに拾ってもらい、2年が過ぎた頃、国王の発案で開始されたのが、国産戦闘機開発計画だったのである。

私が開発主務者に選ばれた理由が何だったのか、所長ははっきりした答を私に与えてくれた事は、今に至るも無い。
ただ、技術者の中で最も年嵩であったというだけだったのだと、今では私が一人合点に考えているだけである。
何はともあれ、突然天から降って来たかのごとき大仕事が、たった1本の電話の呼び出しから始まったというのは、いかにもこの国とあの国王ならではだ。私と所長、それに製作現場の長である技手長は、取る物も取り敢えずに、呼ばれるままに王宮に急いだのだった。
雨期が始まる直前の、暑い日だったのを憶えている。
王宮のセキュリティというのは、基本的に人間の記憶が頼りの、ごく原始的で簡単なものなので、すでに国防省関係で出入りの実績がある私達は、顔パスである。
会議室に通されると、すでに国王はじめお偉方が待っていた。
私は国王をいただく国の生まれ育ちなので、これだけでもう恐縮至極である。
この国の作法などすっかり忘れてしまって、出身国の作法で最敬礼してしまっていた。

国王は記録上では私より2才若いのだが、第一印象は逆に少し年長に見える。この陽気でエネルギッシュな国においても、国民の誰よりも光り輝いて見える方だ。
直接お会いするのは初めてである。
その彼は、私達を着席させるなり、言ったのだ。
この国で製作可能で、運用出来る戦闘機を作りたい、と。

御存知かも知れないが、この小さな国は豊かな地下資源と沿岸の海洋資源を賢く利用して、経済的には大変豊かな国である。小規模ながらバランスの取れた工業も有し、国内の需要を充分賄っていた。少しだが隣国との貿易にも回せる生産量を誇っていたのである。
この地域では最も古く、力のある族長の家系が国を治め、他民族が治める近隣の国々とも、適度なパワーバランスを保ち、外交上も安定していた。
つまり国防上、国産戦闘機を生産する必要など、ほとんど無かったのである。
事実、空軍は存在したが、装備機は軽飛行機改造のCOIN機(局地戦用偵察攻撃機)と海洋監視用軽哨戒機ばかりで、ガスタービン・エンジン搭載機は、国王専用機と少数のヘリコプターばかりだったのだ。空軍の仕事そのものも、国境地帯の警備や同任務の陸軍の支援、海難捜索や密輸船の監視――この平和な国に麻薬を持ち込もうとする馬鹿者がいるのだ――等、大国の目からすれば警察や沿岸警備隊の任務とされるようなものばかり。戦闘機などという物騒な兵器を持つ必要など無いように思われた。
実際、私達と同席した首相も内務大臣――この国の小さな軍隊に国防省は不要で、軍は内務省の一部局によってシヴィリアン・コントロールされていた――も、国王になぜそんな物が必要なのかとお訊ねしたものである。
彼の答は明解だった。
それを作る能力が我が国にある事を、対外的に実証して見せる事が重要なのだ。使うために必要なだけなら、外国の優秀な、実績のある機種を必要数買えば良い。だが、その技術は、そのまま国全体の財産となる。有形無形の形で我が国の自信と武器となるのだ、と……。
つまり、国家レベルの技術開発計画だというわけである。

後に、麻薬密輸業者の活動が激化しつつあり、将来航空機による密輸も考えられるようになったので、この阻止のための戦闘機が、少数だが本当に必要であるという事を知らされたが、それは計画がスタートした後での事だった。当時の私にはあずかり知らぬ事だったのである。

国王は出来るかと問われた。
即答は出来ない。
RATF始まって以来の大仕事である。所長は国王に許しを請い、10日後に奉答いたしたいと述べた。そして、こう質問したのだ。
その戦闘機は、何年後に開発完了しているべきだとお考えか。
今のRATFの陣容で、簡単に出来る仕事ではないが、所長は「出来ない」と即答したくなかったのだ。「出来る」ための方策を持った回答を用意したかったのである。それがかなりの予算と新しい人材を要するという回答でも、それが不可能かどうかは国王と2人の大臣の判断の範疇だ。RATFとしては、それが技術的に可能かどうかが、求められている答なのである。
そしてそれを検討し、答えを出すためには、最低限必要なのが開発期間だ。どんなに期間がかかってもかまわないのなら、技術の世界では、理論上実現可能だとされた技術は、必ず実現可能だ。
だから、想定開発期間が決まっていない開発は、現実のマーケットでの実用を想定していないと云って良い。
国王は、この開発されるべき技術には、市場が存在すると宣言された。それは国威発揚という曖昧模糊としたものではあるが、完了した時点で、この国にとって意味を持つ内容でなければならないのだ。
さらに、現実に空軍に配備するのなら、配備開始時期が予定されていなければ、その時に想定される状況――この場合は国防状況――に即した性能の物を想定出来ない。それがあって初めて、開発予算が見積もれる。それが現実的なものになるのか、それとも見積もり不能なのかどうかは、それからだ。
この質問に、国王はにこりと微笑んで、答えられた。
出来れば3年、長くても5年で完了せよ。その期間で出来る、最高の性能の戦闘機が欲しいのだ。
かの堀越次郎は、ゼロ戦開発に1937年から1940年までをかけたと聞く。約4年だ。国王はこれを想定されているのだろう。だが、私も知っていたのだが、堀越氏はそれ以前に2機種、戦闘機開発を手掛けている。1機種は制式化され、96式艦上戦闘機となって、やはり2年程度、その前の7試艦上戦闘機が初期飛行試験段階で不採用になったが1年、合計6年間の開発経験を、1932年から1936年までの4年間で経験している。すでに2機種で開発主務として働いた経験がある天才の仕事を、その天才が持ったチームより少ない人数で、しかも戦闘機開発の経験ゼロの者ばかりなのにやらせようというのだ。
自分の胸の内の、小さく燃えるものはあったが、無茶だと思った。
だが、あの国王の御前で、そんな弱音は吐けない。それは、彼の目を、間近に見た者にしか判らない感慨だろう。
そして、国王はお言葉を付け加えられた。
金の心配は私と政府がする事だ。君達は気にするな。
所長は私を見た。
私は、円卓の下で3本の指を見せた。
最低、3つの開発案を次の御前会議に提示するべきだ。
技手長は、10本の指を広げて見せた。
最低、開発試作の作業だけで10人の工員が必要だ。(今の工房の工員は12人、手空きは6人だった)
そして、2本の指。
2人、技手長が必要だ。(今のRATFに技手長は彼しかいない。工務長はいなかった)
所長は顔を上げ、答えた。
陛下、RATFとしての概算要求資金も含めて、3案を10日後に提示奉りたく存じます。それで、よろしゅうございましょうか。
国王は、頷いた。

工房に戻ってからが大騒ぎとなった。
工房の総勢は30人。今までは輸入した軽飛行機を空軍の色々な用途のために改造するのが主な仕事で、一から飛行機を作る事など、暇な時の自主研究でペーパープランを考える程度がせいぜいだったのだ。それも、大部分がスポーツ用軽飛行機のプランだった。設計部門は6人だけ。私と、もう1人アランという私より3才若い男が外国人だ。他の4人は国費留学で先進国の大学に学んだ、パワーはあるが経験不足の、この国の若者達だけだ。
私もアランも、自分の故国である“先進国”で、軽飛行機の設計業務に携わった事はある。大メーカーの下請けで戦闘機の部品設計をやった事も、私はあった。アランも、軽攻撃機の尾翼の、構造の設計だけやった事がある、というだけだ。コンセプトから一つの機体設計をまとめた事など、無い。これでは、大学で全体的な設計手法を学んで間が無い、若いこの国の技術者達の方がましかも知れない。
1時間後、若い技術者達の「喜びのダンス」の輪舞で破壊されかかった設計室を修復してから、やっとまともな話が出来るようになった。私とアラン、そして若手の中では最も年嵩のマキルと、3人で叩き台となるコンセプト・モデル(概念設計案)を作ってみる事になった。
私は言ったものだ。
先ずこの工房の現状で、年産1機でも良いから、製作可能な機体を考えよう。エンジンは輸入。超音速性能は高望みしすぎだろうから、亜音速で運動性重視の物が良かろう。ちょうど、亜音速高等練習機を単座にしたような機体なら、設計も比較的楽だし、用途は軽攻撃機だが、手本になる外国の既製機もあるから、1機輸入してもらって研究材料にしよう。
私はマキルに、入手可能な軽攻撃機(中古で充分!)に、今何があるのか調べてくれるよう頼み、アランは、適当な既製エンジンのリストアップと、国産出来そうな装備品とその国内メーカーのリストアップをする事になった。私はと云うと、空軍の3つある基地を回り、軍の整備兵達が、どの程度の機体を整備可能か、再教育プログラムの骨子も含めて調べて来る事になったのである。
基本調査期間は、7日間とした。残り3日間で、基本コンセプトを含めた国王への回答を、まとめるつもりだった。
  

Posted by 壇那院 at 19:33Comments(0)軽戦闘機 ロア

2010年09月17日

PHASE 1-2 リサーチ(調査)

この段階で、私とアランは、ある密約を交わしていた。
それは、現地人設計スタッフでは最年長で経験も最も長い、マキルを出来るだけ開発主務に推そう、というものだった。
考えてもみて欲しい。このプロジェクトは技術開発計画でもあるのだ。既存技術だけで開発出来る、所謂「製品開発」ではない。
外国人である私やアランが開発の主導権を取ってしまったのでは、計画から生み出される諸々の技術と発想とノウハウは、この国の技術者達に根付かないかも知れない。私達の個人的ノウハウなどには、断じてさせてはならないのである。私もアランも、それまでの2年余り、軽飛行機の機体に小口径機関銃や小型爆弾を取り付けるラックやパイロンを設計する程度の仕事で、望外の高給をこの国の国家予算から貰って来ているのだ。私の妻も、この国での田舎暮らしにすっかり馴染み、今の立場と収入では高いとは云えぬ旅費を使って、故国に里帰りするのを勿体無いと言うようにさえなった。
この借りを、ここで返さなければ、そのチャンスはもう無いだろう。
私もアランも、馬鹿だったのかも知れない。だが、30年経った今でも、後悔はしていないのである。

ちょうど雨期が始まる前の暑い日が続いたのを、今でもよく憶えている。7日間、私は車や工房の業務用機(エンジンだけは新品の、30年も飛んでいる古いセスナ152だった)を飛ばして、国内に3つある空軍基地を、訪問して回った。首都から最も近い、最大の基地には、空軍の業務本部や技術本部があり、整備兵達の教育や選抜を担当している士官とも会えるし、整備兵訓練所もあるのだ。教育担当士官と話し、訓練所を視察させてもらう。現場視察の時には、技手長と一緒に、整備兵達の仕事振りを観察した。彼等と手当たり次第に話もした。
彼等は実直で、正直な男達だった。大部分が空への憧れから空軍を志願した若者で、学歴は平均すると、この国ではかなり高い方になる。識字率が60パーセントのこの国で、ほぼ全員が中学校を卒業しているのだ。富裕な農家の次・三男や、都市部の中流家庭の出身者が大半だった。英語の読み書きの基礎が出来る事が、空軍で整備兵になれる最低条件だからである。彼等の相手の機器類は、大抵、英語で取扱説明書(マニュアル)が書かれているからだ。
しかし、戦闘機部隊を1個中隊(スコードロン)12機程度でも新規に導入するとなると、何人の整備兵がこの国の教育水準と整備兵学校の能力で充当出来るだろう? それに、既にいる整備兵達も、ジェット戦闘機を整備可能なレヴェルまで、再教育するには、どれだけの期間と予算が必要だろうか?
ガスタービン・エンジン搭載のヘリコプターや国王専用のビジネス・ジェットを整備している、他より1ランク上の整備兵達のグループはまだしも、軽飛行機改造機を担当している連中には、さらに1年間以上の一般・専門取り混ぜた教育が必要な様に思われた。
私はこの戦闘機の開発方針に、こう、付け加えようと決心したのである。
新戦闘機は10人程度の整備兵チームによって整備が可能な物であるべきだ、と。現在の空軍の人員規模の拡大には、かなり低い限界を見積もらなければならないだろう。開発にゴーサインが出れば、必要な部隊数と機数が空軍当局で見積もられ、メーカーとしてのRATFに提示されるだろうが、それの実現性確保のためには、1機当たりの所要運用員数を(パイロットも含めて)少なくし、1スコードロンの隊員定数を小さいものにしておかなければならない。

7日目に、私達3人は設計室で顔を合わせた。3人共、自分が集めた資料の束を打ち合せ用のテーブルに、3部置くと、一斉にしゃべり始めて、そして一斉に沈黙した。
何かのコメディ映画でも見ている様で、思わず私は笑い出してしまった。
アランも腹を抱えて椅子から転げ落ちそうだ。遂にはマキルも、周囲で見ていた他の技術者達も、大笑いし始める。その爆笑の渦がおさまるまで、2分や3分はかかったと思う。
緊張は、どこかへ行ってしまった。
呼吸を整えて、最年長の私から資料の説明を始めた。
整備員の質や空軍の教育システムの問題点、この国全体の教育水準から考えて、新戦闘機の整備性・信頼性はかなり高い水準でなければならない。A整備で3人乃至4人、C整備でも10人程度の整備員でまかなう必要があるだろう。それ以上の整備員を必要とする場合、5年以内に3個スコードロンを編成し、36機以上を運用出来るだけの人数の整備員を採用・教育している能力的キャパシティが、今の空軍には無いと考えられるのだ。
1つのスコードロンが全機出撃するなどというのは、10年に1度あるかどうかの事態だろうが、軍隊というのは元々、そういう滅多に無い事態に対処するための組織だ。部隊は、編制上は全力出撃を前提にして組織されるのだから、最低でもA整備を全機同時に行なえるだけの人数が、部隊の整備兵定員になる。所要人数が1機当り3人なら、12機で36人、4人なら48人だ。陸軍の歩兵部隊なら1個小隊である。指揮官は士官1人、軍曹クラス6人程度で済む。これが仮に6人だとすると、72人、2個小隊又は1個歩兵中隊になる。指揮官だけで士官クラス3人、軍曹クラス12人を要する。空軍の志願兵役期間は最低3年だ。スコードロンの整備小隊の編成の中で、職業軍人が7人で済ませられるか、副官クラスも含めて25人以上を要するかが、この戦闘機の整備性にかかっている。
無論、空軍当局に新戦闘機を実戦配備する気が本当にあるのなら、だが、私達(開発担当であるRATF)としては、その前提で開発計画をまとめた方が得策だろう、というのが、私の結論だった。
アランもその辺を考えて装備品の候補をリストアップしていた。無線機やレーダー等の電装品は評価の定まったドイツ製やスエーデン製、アメリカ製が多い。日本製もあったが兵器の輸出制限をしている国なので、駄目だろう。エンジンも、カタログ上の性能は他の先進国製より劣るが、整備性・信頼性で優れるロシア製小型エンジンが多かった。少数、古い基本型のアメリカ製とイギリス製がリストアップされている。途上国向け輸出用戦闘機等に搭載されているエンジンだ。装備品や部品の内、ライセンス生産や国産でまかなえそうな物は、品目点数にして50パーセント程度だった。国内で最も大きな鉄工所なら、機体の外板や小さめの桁(けた)等の構造部材は製作可能だろうと云う。
アランは言ったものだ。
全幅8メートル程度までなら、主翼主桁(メインスパン)も製作可能だろう。ただし、調べた限りでは、半分手作りで、年産5組といったところだ。それも、検査用の測定機を新しく買うか作るかしなけりゃならんだろう。
それが無いと、製作用や組立用の冶具も作れないだろうと言うのだ。安く見積っても2万ドル、たぶん7万ドルを、設備投資費として先払いしなければならないはずだそうだ。
つまり、それだけの予算を、我々工房側としては、この開発計画の経費に上乗せして国から引き出さねばならない事になる。
そこで、私は一つの欲張りな不安にかられた。
それまで考えてもいなかったのだが、開発予算の見積りを、3日後の謁見報告までに、たとえ予備見積りでも、示す事が出来るだろうか? 技術的な可能性ばかりに心を奪われて、そんな事を考えてもいなかった。
国側も、そうなのではないか? 予算配分の内訳を、調査して把握している人は、いるのだろうか?
だが私は、話に聞くアメリカの軍用機開発の、フェーズ分割契約形態を真似た見積りの仕方なら、なんとかなるかも知れぬ、と考えた。基本設計の提出と承認までを、<フェーズ1>とし、そこまでの見積りなら、3日間で出来るのでは、と思ったのだ。
  

Posted by 壇那院 at 20:48Comments(0)軽戦闘機 ロア