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2010年07月01日

軽戦闘機 ロア

   序


軽戦闘機というカテゴリーが、軍用航空機の分野にはある。
F-22やSu-27に代表される現代戦闘機を見慣れたひとには、この概念はちょっと時代遅れに映るかも知れないが、つい10年前にも天下のミコヤン設計局で開発企画が発表された、今に生き続けている概念なのだ。
その時代の基準で軽量小型で、軽快な運動性(=現代的な表現では高い機動性)を持ち、欲張った多機能を求めず、敵機を撃墜又は撃退する事に特化した戦闘機である。
第一次世界大戦で戦場の空に初登場してからしばらく、戦闘機とは軽戦闘機のことだった。
その後、第二次大戦までの21年間に、これに対比される重戦闘機思想が現われる。
運動性の高さよりも高速性能と上昇性能に優れ、大型爆撃機も一撃で撃破出来る重火力を備える、場合によっては複数の乗員を搭乗させる中型機であった。主に双発機だったが、後に大出力のエンジンの登場で単発機も現われる。大出力エンジンにより搭載力の余裕があり、戦闘爆撃機や重い初期のレーダーを搭載して夜間戦闘機にも転用可能だった。又、対爆撃機用として、高い上昇性能を買われ、迎撃機として重用されもし、多くの機種が開発された。
だがジェットの時代になって程無く、そのレシプロエンジン/プロペラ推進の航空機からすれば圧倒的なパワーを利した戦闘爆撃機が戦闘機の主流となり、長きにわたった戦闘機の運用思想の対立は、重戦闘機に軍配が上がったかに見えた。
そして、推力が機体重量と拮抗するような大出力エンジンの出現が、戦闘機の機動性に関して、空力的な自由度の高さを意味した「旋回性能」ではなく、運動エネルギーの変動率を基準とした考え方である「機動性」概念が導入され、ジェット戦闘機においては重戦闘機の方が高い機動力を有するという観念が一般化したのである。
だが、それでも軽戦闘機は死ななかった。
重戦闘機が多用途戦闘機となり、「戦術戦闘機」と称するようになってなお、その重戦闘機の本場であるアメリカですら、軽戦闘機の開発は続けられていたのである。
各時代の名高いアメリカ製軽戦闘機というと、F-104、自主開発だったF-5、F-20、試作段階でのF-16などだろう。合衆国ほど金持ちではなかった欧州諸国では、やはり同じ万能戦闘機でも、アメリカの同時代機に比して全体に小型だったが、フランスのミラージュⅢ、イタリアのG91などが、軽戦闘機と称せる機体だった。スウェーデンのサーブが、内部モジュールの交換によって多機能化する構想で開発した、J39グリペンが、辛うじて現代の軽戦闘機と云える。

だが、ここ30年くらいまでを「現代」と定義すると、小生の脳裏に浮かぶ“現代の名機”がある。
無論、軽戦闘機である。
それも、おそろしく小さく、シンプルだ。
湾岸戦争やレバノン紛争で活躍したF-16ではない。このアメリカ・ジェネラルダイナミックス社(現ロッキード社)製戦闘機は、確かに大型のF-15に対するハイ・ロー・ミックス戦略構想の下に開発されたもので、試作機YF-16は“軽快な機動性を主体とした単能戦闘機”という軽戦の機能的定義からすれば、明らかに軽戦闘機だった。が、その飛行試験、システム運用試験の結果、最終的に開発・採用された制式機F-16は、姿はほぼ同じだが、内容はとても軽戦闘機とは云えない代物になっていたのだ。
その“名機”というのは、HALアジート。
インドが国産し、数次にわたる印パ戦争で大活躍した戦闘機である。エンジンは古いRRオーフュース。アフターバーナすら持たないピュア・ジェットエンジンの単発で、自重は3トンにも満たない。原型はイギリス・フォーランド社(ホーカーシドレーを経て現在ブリティッシュ・エアロスペース)製の軽戦闘機ナットである。本国イギリスでは戦闘機としては正式採用されなかったが、複座化したナット・トレーナーは永らく英国空軍の正式中等練習機で、空軍正規アクロバット・チームのレッドアロウズの運用機だった機体である。F-86やMig-17と同時代の初飛行の、亜音速戦闘機だ。
「なんだ、“現代の…”って云ったじゃないか」と文句を云われるヒトもおられるだろうが、このアジートが古いナットの改設計機だとは云え、70年代後半の登場から15年以上、現役戦闘機としてインド空軍の第一線にあったのだと云えば、小生がこれを現代戦闘機としてカテゴライズしても、そう的外れではなかろうと思う。
ナット及びアジートがなぜ活躍したのか、出来たのか、については、色々と知っている人は薀蓄をかたむけるところだろう。
曰く、アジート導入以前にインド空軍はナットを導入していたが、そのナットの頃から――つまりカースト制度が今より厳然と存在していた頃の、教育水準の低い整備兵達の手によっても――その単純なシステムのため、非常に高い稼働率を示した。
曰く、国境紛争というかなり小さく地域を限定された戦場では、小回りが利く戦闘機が有利で、加速に時間と飛行距離がかかる超音速性能など無意味だった。
曰く、晴天が多い印パ国境地帯では、索敵レーダーを持たないナットやアジートでも充分だった。
その他、その他……。
どれも、一理ある。小生も、そう思うのだ。
だが、「だからアジートは世界中どこでも通用する訳ではない」と云われると、「待てよ」と思う。
用兵側の技術水準、運用水準という観点から見れば、それは今や技術大国となり、昔からどちらと訊かれれば人海戦術主義より少数精鋭主義を選択し勝ちな、我々日本人の悪い癖なのではないか。戦争では、それぞれの局面・観点での最小戦術単位というべき概念がある。それは陸戦においては歩兵1人、戦車1両の時もあり、航空戦においては戦闘機1機、はては1発の爆弾という場合も、当然ある。だが、数が揃わなければ、兵器が動かなければ、意味が無いのが戦略的観点だ。
1機のF-15を作戦行動状態で動かし続けるには、高卒以上の学力を持ち、最低半年間の整備技術教育――職種によっては3年間以上――を受けた整備員が30人以上必要だそうである。
対して、アジートは中学校程度の学力を持つ、やはり1年から3年間の専門教育を受けた整備員10人程度で済むと聞く。
資金は湯水の様にあるが、兵隊の識字率50パーセント以下という空軍をあなたが任されたとしたら、あなたはF-15を採用するだろうか?

――もし、「誉」エンジンの信頼性が高ければ……。
よく、太平洋戦争を題材にした戦記や架空戦記で目にする文句だ。<烈風>も<疾風>も、もっと活躍しただろう。ましてや<烈風>は制式化も戦線投入も、戦争に間に合ったのではないかとすらする戦記もあった。
結局、実戦配備されなかった<烈風>はともかく、<疾風>の搭乗員達は現実に、このデリケートな高性能エンジンを手懐けられる“名人級”の整備員に当たって、初めて作戦に参加する事が出来た。低品質のガソリンでも1800馬力以上を絞り出し、且つ戦闘機用として妥当な重量にするために、かなり無理をした設計だったそうである。稼働率が低くても当然だったのかも知れない。だが、もっと極端に考えたら、そんな“名人”整備員がいなかったら、どうするつもりだったのだろうか?
又、ドイツのダイムラー・ベンツDB601をライセンス生産しただけのハ40エンジンを搭載した三式戦闘機<飛燕>は、なぜあんなに稼働率が悪かったのか? 同じ設計のエンジンで、ドイツではなぜMe109だけで3万5000機も生産され、飛び、戦えたのか? 同エンジンとその発展型は、ドイツでは概ね10万台が生産され、5万機以上の軍用機の心臓として稼働したのである。

“信頼性”に人的要因は欠かせない。そして人的要因に“教育”は決定的要素なのだ。
10機の整備し切れないF-15より、同じ10機のすぐ飛べるアジートの方が、はるかにマシな戦力である事は、火を見るよりも明らかである。
かつてのインドの様な国はまだ、世界中にいくらもある。彼等は今もまだ、ナットを輸入し、それを自国に合わせて練り直してアジートに作り直したインドの後を追っているのである。
小生が、母体のナットと違って実戦経験も無く、地上姿勢では垂直尾翼上端に手が届くような、小さなアジートを“名機”と呼ぶのは、そして軽戦闘機にこだわるのは、そんな理由からなのでもある。

これから読者諸賢にお送りする架空の戦闘機の物語は、そんなところから思い立ったものだ。筆者は技術者なので、やはり開発物語にしたかったし、小さな頃からの憧れだった、故・堀越次郎氏の著書になぞらえた物を書きたかったのだ。
主人公はある意味、筆者の理想の技術者である。


目標8万字(200枚)程度の中編の序文としては、やたらに長くなってしまった。
偶然この駄文を目にされたあなたは、不運なひとなのかも知れない。
どうか、以下に始まる物語を、楽しまれんことを。

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この記事へのコメント
うわ~、この手の話題は私のような「ミリタリーヲタ」には
たまりませんな~。
ハ-45「誉」エンジンについて語るだけで、このコメント欄が
フルになってしまいそうです(笑)。

ホーカーシドレー・ナット!なつかしいですね~。
でも「戦闘機として不採用」だったとは知りませんでした。
やっぱりレッドアローズの使用機というイメージが強いからでしょう。

それをインド流に改良したのがアジートなんですね。
ということは、搭載エンジンがシドレー・オーフュースということからしても、
あのクルト・タンクが設計したヒンドゥスタン・マルートの親戚、ってとこでしょうか。

キ-61「飛燕」がエンジントラブルで活躍できなかったのは事実ですが、
いいエンジンに当たれば10000mでもB-29より優速だったそうです。

結局、残念ながら当時の日本の諸々の品質(鉄・艤装・電纜すべて)が
ドイツのレベルに達しておらず、同じDB601を装備したイタリアのMC202
フォルゴーレが、あの(戦い下手の)イタリア空軍にして結構活躍して「名機」と
呼ばれたのを見ても(たぶんあっちのDB601はドイツからの直輸入品)、
自前でいい液冷エンジンを造るところまで進んでいなかったのでしょう。

アメリカはロールス・ロイスのマーリンエンジンをパッカード社が完全に
デッドコピーして、あのP-51を造ったわけですから、国力の違いでしょうね。

飛燕にマーリンを載っけたら、どんな飛行機になったかな‥なんてね。

今後の展開、楽しみにしてます(^^)。
Posted by ももっち at 2010年07月15日 12:03
ももっちさん

返事激しく遅れました。すみません。
実際、旧陸軍の戦闘機で、小生が思うに、最も現実的に優れていたのはツギハギ戦闘機の5式戦闘機だったのではと、思っているんです。99艦爆などに搭載され、信頼性の点ではタイムプルーフを受けたエンジンでしたし、とにかく空力抵抗を除けば<飛燕>2型の設計構想どんぴしゃりのバランスを持っていましたからね。
あぁ、手元の資料では、フォルゴーレはドイツ製のエンジンを輸入・装備していた様ですし、もともと、イタリアのエンジン・メーカーが大戦間に貯め込んだV型液冷エンジンのノウハウは、日本の熱田や川崎が逆立ちしても太刀打ちできないレベルだったはずです。(シュナイダー・トロフィーの歴史をのぞいてみて下さい) フィアットあたりで研修した整備員なら、稼働率維持は楽勝だったでしょう。
「誉」については「工業製品というより工芸品」という表現が有名ですが、これ、我々日本人には自慢になりますが、本物の技術者にとっては、自慢にも何にもなりません。カタログデータがいかに立派だろうと、安定した品質を維持出来る管理技術も無く、設計だけが暴走したようなモノを量産しようという根性が間違っていた、というのが、戦後の日本技術者の反省だったんですから。日本の工業品質管理技術が世界一になったのも、「誉」に代表される「暴走した設計」が原点にあるのだと思っているんです。ハイオクタン・ガソリンのハナシも有名ですね。これ、1943年くらいまでは、連合国側の最高軍事機密だったので、開発したエッソとエクソンはアメリカ政府に接収されたも同然の扱いを受けていた時期があったそうですよ? 「誉にハイオク」はまさに夢物語だったんです。(バトル・オブ・ブリテンの勝因のひとつがこの「秘密のハイオク」をスピットファイヤやハリケーンに適用したからである、と云われています)
<飛燕>は好きな飛行機なんですが、いかにもエンジンが残念でした。やはり日本メーカーでは大出力液冷エンジンは当時無理だった様です。同じ土井武夫氏設計の空冷エンジン装備機は、どれも安定した性能で、とにかく働きものでした。2式複戦などは、その中でも有名ですね。
頑丈な設計の機体だったので、<飛燕>にマーリンを搭載する事は出来たでしょう。1700馬力の大出力にも耐えられたでしょう。マスタング並の大直径プロペラは無理でしょうから、5乃至6翔ペラが必要になりますが、一応、海軍で開発していた<震電>の6翔ペラが使えたでしょうから、あながち不可能ではありません。
でも、これも夢物語ですよね。
同じ夢物語なら、自分が気に入った夢を語りたいですよね。
さあて、本編の方、ももっちさんの目にはどう映るでしょうか。
それからアジートは、同時期にマルートを開発していたタンク博士のチームとは別の設計陣が手懸けた様です。空調を強化する等、小規模ながら手堅い設計だったと聞いています。
Posted by 壇那院 at 2010年08月04日 21:55
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